灯り坂 灯り坂へもどる
あらすじ

十四になった日、コハクは「冒険に出たい」と言って、笑われた。この家には、上手くなれるものがひとつも無い。その晩、机に残したのは五文字だけだった。ひと月歩いても、覚えられる仕事はどれも半日で終わってしまう。バスの終点で降りると、坂の下から上まで、灯りが列になってともっていた。

TRIAL READING / 試し読み 第一部 『ひとつめの灯り』

第1章「四月十二日」/第2章「終点」

第1章は全文を、第2章は後半を置いています。あいだのひと月は、あらましを挟みました。


四月十二日の朝、コハクは机に向かって旅の人が置いていった地図の写しを取っていた。折り目の茶色く抜けたところは線が消えているので、前の二枚を思い出しながら継ぎ足していく。

写しはこれで三枚目になり、道の曲がりかたも町の印の付けかたも手のほうが先に覚えていた。筆を持つ前に息をひとつ吐いてから引くと線が細く出るということも、二枚目の途中でひとりでに分かったことだった。

道は写せるし町の印も写せる。

どこで道が細くなるのかも、写しているうちに覚えてしまった。

写した先へ行ったことだけが、まだ一度もない。

紙の右の端のほうに、字がかすれて読めなくなった町がひとつある。旅の人はそこは通らなかったから知らないのだと言って、その字のあたりを指の腹で一度こすってみせた。知らない場所が地図のなかにあるということが、コハクにはそのときからずっと面白かった。

写しているあいだはその町のことを考えていられるし、手が動いているぶん何かをしている気にもなれる。線を引き終えて筆を置いてしまうと、それきり何もすることが無くなってしまった。

今日で十四になるのだが、体のどこかが昨日と違っている気がして耳を一度だけ動かしてみた。動いたということのほかには、何も分からなかった。

窓の下では誰かが箒を使っていて、乾いた音がおなじ間隔でいつまでも続いている。掃いているのが誰なのかを、コハクはいまだに知らなかった。家のなかの音なら足の運びかたひとつで誰かを言い当てられるのに、表から来る音だけはそういうふうにならない。

この家の一日は朝の音の順番まで去年とおなじで、順番が変わるのは誰かが病気をしたときだけだった。箒の音のあとに井戸の滑車が鳴り、そのあとで表の戸が二度きしむ。

この家でコハクがする仕事は、水を汲むのと、鶏の世話をするのと、紙に線を引くのと、それだけだった。どれも、教わったその日のうちにできるようになってしまった。

外の町にはもっと難しいものがあって、それは一日や二日では覚えられないのだろうと思っていた。何年かかけて覚えるものを一つでいいから持ってみたかったが、この家のなかにはそういうものが一つも見つからない。下へ降りると台所で祖母が鍋の前に立っていて、こちらを見ないまま声だけがした。

「おめでとう。もう十四かね」

「うん。そう言われても、あんまり実感はないんだけど」

「去年のいまごろ何をしてたか、あんた覚えてるかい」

コハクはしばらく考えてみたが、去年の四月十二日に何があったのかは出てこなかった。その前の年もそのまた前の年もおなじで、思い出そうとすると全部がひとつづきの一日みたいに重なってしまう。

「覚えてない。たぶん、いまとおなじことをしてたと思う」

「そうだろうね。うちの朝はだいたいいつもおなじだから」

祖母が鍋の蓋を取ってなかを木の匙でひとまわしすると、立った湯気に豆を煮る匂いが混じって台所の隅まで一度に届いた。コハクはこの家の朝の匂いを七つか八つに分けて言い当てられるのだが、そのことを誰かに話したことは一度もない。

水を汲んで台所へ運ぶのは毎朝の役目で、桶が重いのも途中で少しこぼれるのももう何年も変わらなかった。運び終えて手を拭いていると母が奥から出てきて、並べはじめた膳の皿がいつもより一枚多いことにすぐ気がついた。

多い一枚には卵を焼いたものが載っていて、母はそれを並べながら皿の位置を二度直した。それから、何も言わずに自分の席へ着いた。

「好きだったでしょう、これ。ずいぶん久しぶりに出したのよ」

「うん。ありがとう」

父はもう食べはじめていて、口を動かしたまま顔だけを上げた。

「十四か。そろそろ蔵のほうに手が要るな」

「手って、どういう手のこと」

「田も蔵も、いつまでも俺ひとりというわけにはいかんだろう」

コハクは卵を半分に割って片方を口へ入れたが、おいしいと思っているうちにそれも終わってしまった。残りの半分は、味のことを考えずに食べた。

朝のあいだは父について蔵の裏へ行き、去年のうちに積んでおいた麦の袋を風の通る側へ積み替えた。袋は肩に担ぐと思ったより重くて、三つ運ぶごとに一度は息を継がなければならない。

父はおなじ袋を二つずつ担いで、そのあいだ一度も息を継がなかった。肩の毛が擦れて薄くなっているところに袋の角がちょうど収まるので、途中で担ぎ直す必要すらないのだった。三段目まで積んだところで父が何も言わずに袋の向きを直したので、口を縛った側を内へ向けるものらしいとそのとき初めて知った。

「それ、教わらないと分からないやつだよね」

「一度やれば覚える。覚えてしまえばどうということはない」

「じゃあ、誰かに教わったんだ」

「教わってない。三年もやれば、湿るほうと湿らないほうが自分で分かる」

「僕も二つ持ってみていい」

「やめとけ。落とすと口が開く」

「開いたら詰め直せばいいだけじゃないの」

「詰め直すのは俺だ。お前の背丈だと、下の袋の角が膝に当たる」

父は次の袋を担ぎ上げて、それきり何も言わなかった。コハクは一つだけを担いで、父の三歩うしろを歩いた。三歩の間隔は、蔵の裏を往復するあいだ一度も詰まらなかった。

コハクは運びながら父の手のほうを見ていたが、袋をつかむ位置が毎回きれいにおなじだった。そこをつかめば途中で滑らないということを、目より先に体のほうが覚えているらしい。真似しておなじところをつかんでみたが、指が四本しか掛からなかった。

「去年の人、覚えてるか」

父が急にそう言ったので、コハクは袋を取り落としそうになった。

「去年の人って、秋にうちへ泊まった人のこと」

「そうだ。荷を背負って、袋の破れを縫ってもらいに来たろう」

覚えていた。忘れるはずがなかった。

その人は昼過ぎに来て、母に袋を縫ってもらうあいだ土間の框に腰を下ろしていた。荷は膝の上に抱えたままで、そこから出ていた匂いをコハクはいまでも思い出せる。この家のどの匂いとも重ならなくて、雨と、油と、知らない土の匂いが一度に来た。

縫っているあいだ、旅の人は框に地図を広げて通ってきた道を指でなぞって見せた。指はところどころ節が太くなっていて、爪の先が短く削れている。コハクは框の端に座って、その指が止まるところと止まらないところを目で追っていた。

「そこ、なんて町ですか」

「読めなくなってますね。私も通らなかったので知らないんです」

「知らないところがあるのに、それでも持ち歩いてるんですか」

「知らないところがあるから持ってるんですよ。全部知ってる紙なら、もう見ませんから」

旅の人はそう言って地図の端を指の腹で一度こすると、道をひとつずつ覚えていけば通れる道が毎年少しずつ増えるのだと言った。増えていく、という言いかたがコハクの耳に残った。

「着いた先で、何をするんですか」

「その町にあって、うちの町に無いものを見ます。見ると、たいてい手の動かしかたが違うんですよ」

「違うと、どうなるんですか」

「真似します。真似できたぶんだけ、次の町で困らなくなる」

「できないことのほうが多いのに、よく行けますね」

「できないことが多いところにいるほうが、気は楽なんです」

母が糸を切ったところで、父が土間へ入ってきた。

「どちらへ行かれるのですか」

旅の人は少しのあいだ黙ってから答えた。

「決めていません」

あのとき、父は笑わなかった。

「そういうこともあるでしょうね」

それだけ言って父は母に一膳ぶんの支度を頼み、その晩は納屋に寝てもらった。翌朝には旅の人はもういなくて、框の上に地図だけが置いたままになっていた。

「あの人、どこまで行ったんだろうね」

「さあな。ああいうのは、帰るところが無い者のすることだ」

父は最後の袋を積み終えて掌を打ち合わせ、埃を落として先に家へ入ってしまった。コハクは何か言おうとしたのだが、言葉の頭が出てこないうちに戸が閉まった。帰るところが無い者、という言いかただけが耳の内側に残った。

一人になってから蔵の裏で袋をもう一つだけ担いで、息を継がずに三歩、四歩と運んでみた。五歩めで肩が下がって、袋の角が腰のところまで落ちた。朝と何も変わっておらず半年前もおなじで、たぶん来年もおなじだろうと思った。

道の向こうの家の子は、去年から屋根を葺く人のところへ通いはじめたと聞いている。もう一軒先の子は、二年前から鍛冶のところで槌を持たせてもらっているらしい。どちらも夕方になると手を真っ黒にして帰ってきて、それを洗い落とすところを何度か見たことがあった。

コハクの手には、麦の袋の埃がついているだけだった。埃は洗えば落ちるし、落ちたあとに何が残るのかを、コハクはまだ知らなかった。井戸で手をこすってみると、水はすぐに澄んで戻った。

昼前に用が済んだので、鶏小屋の水を替えてから表の道まで出た。鶏の水替えは五つのときから毎日やっていて、桶を置く場所も網の戸の閉めかたも考えないでできる。考えないでできるようになってから、もう何年も経っていた。

道の向こうを荷車を引いた人が南へ通っていったが、顔は知っているのに名前は知らない人だった。こちらを見なかったのでコハクも声をかけず、車輪の音が遠ざかったあと、道はまたもとの静けさに戻った。

少ししてから籠を背負った人が反対の向きに歩いてきて、目が合ったので会釈をした。相手も会釈を返してそれだけで行ってしまったが、名前を知らない人とすれ違うのはこの道では珍しくもない。

道はまっすぐ伸びて木立の手前でゆるく曲がり、その先は見えなかった。曲がり角までなら歩いて一日もかからないところにあるのに、コハクはそこまで行ったことがない。

その日は少しだけ歩いてみたが、半分ほど行ったところで日が高くなってしまった。戻らないと昼の手伝いに遅れることに気がついて、そこで向きを変えた。

曲がり角は、戻りはじめたときもまだおなじだけ先にあった。歩いた時間のぶんだけ近づいたはずなのに、近づいたという感じがまるでしない。

去年の旅の人は、道をひとつずつ覚えると通れる道が毎年増えるのだと言っていた。この道はもう端から端まで知っているのに、それで通れる道が増えたことは一度もない。曲がり角の手前の石は、去年より少しだけ土に埋まっていた。

夕方の膳には朝とおなじ卵がもう一度出たが、母がそういう日にしたかったのだろうと分かったので、コハクは何も言わずに食べた。

父が湯呑みを置いた音がしたとき、コハクは息を吸ってからそれを言った。

「僕、冒険に出たい」

母が匙を持ったまま笑った。

「また言ってる。あなた、それを何年言ってるの」

「本気なんだ。今年は前と違うんだよ」

「毎年おなじことを、おなじ顔で言ってるでしょう」

父も笑ったが、声を立てて笑ったのではなく口の端だけを動かして湯呑みを持ち直しただけである。それでも笑ったということは、コハクにも分かってしまった。

「それで、どこへ行くつもりだ」

「まだ決めてない」

父の口の端が、さっきよりもう少し動いた。

去年の秋におなじ言葉を框の上で聞いた人が、いまおなじ言葉を息子から聞いて笑っている。言葉のほうは一字も違わないのに、言った者が違うだけでこんなにも違うのだった。

「決めてから言いなさい。行き先も無いのに出るのを、旅とは言わん」

「決めたら、行っていいの」

「そういう話じゃない」

「じゃあ、どういう話なの。僕はどっちを直せばいいの」

父は湯呑みを置いて、はじめて少しだけ困った顔をした。

「お前がここで何もできんうちは、どこへ行っても何もできんという話だ」

「ここには、僕にできることが無いんだよ」

「袋を運んだろう。今朝、三段目まで積んだじゃないか」

「あれは誰でもできる。半日教われば、誰がやってもおなじものになる」

言ってから、思っていたより強い言いかたになったことに気がついた。母が匙を置く音がして、そのあと少しのあいだ誰も何も言わなかった。

「水汲みも鶏も、あなたちゃんとやってるじゃない」

「うん。でも、去年より上手くなってない」

「上手くなる必要のあるものじゃないでしょう、ああいうのは」

「そうだよ。だから嫌なんだ。上手くなれるものが、この家にはひとつも無い」

「上手くなって、それでどうするの」

「わからない。でも、去年の自分と同じままで一年が終わるのは嫌なんだよ」

母は口を開きかけてそれから閉じた。父が湯呑みの底を膳に当てて話を切るときの音を立てた。

「それでいいでしょう。みんなそうやって暮らしてるんだから」

コハクは膳を見たまま黙ったが、それでいい、と言われたことがこの日のうちでいちばんこたえた。誰にでもできることを誰にでもできる速さでやっている。十四になった日に自分の手のなかにあるものを数えてみると、それで全部だった。

顔を上げたとき、祖母だけが笑っていないことに気がついた。祖母は膳の端に座って、汁を冷ますために椀を持ち上げたまま止まっている。それがいつからそうだったのかは、コハクには分からなかった。

父が立ち上がって、話はそれで終わりになった。

片づけのあいだ祖母は流しのところで手を動かしていて、コハクが桶を運んでいくとこちらを見ないまま口を開いた。

「さっきのは、本気だったのかい」

「うん。ずっと前から思ってた」

「行って、何をするの」

コハクは桶を置いてしばらく考えたが、考えているあいだにも答えは出てこなかった。何かをしたいのは確かなのに、その何かの名前をひとつも知らないのだった。

「わからない。行けば分かると思ってる」

「そうかい」

祖母はそれ以上何も言わず、うなずきもしなかったし、やめておきなさいとも言わなかった。手を動かして、洗い終えた皿を一枚ずつ布巾の上へ伏せていっただけだった。

コハクはその横で、皿が増えていくのを見ていた。最後の一枚が伏せられて祖母が手を拭いても、やはり何も言わないままだった。

部屋へ戻って父の帳面の裏紙を一枚出し、書いては消し、また書いては消しているうちに、文はそのたびに短くなっていった。長く書けば書くほど、置いていく者の言い訳のように見えてくるからだった。

三度目に消したあと、コハクは筆を置いて窓の外を見た。外はもう暗く、木立のあたりと空との境が分からなくなっている。

最後まで消えずに残ったのは、五文字だった。

「行ってきます」

それを机の真ん中に置いて飛ばないように上へ硯を載せると、写した地図の三枚はその硯の下に重なったままになった。

鞄に入れたのは着替えと、母が去年縫った袋と、帳面の裏紙が何枚かだけだった。麦の袋で痛くなった肩に鞄の紐がちょうどおなじところで当たって、歩き出す前から少し痛い。

戸の前でしばらく立っていた。家のなかの音はもう止んでいて、父の寝ている息の間隔も、祖母が寝返りを打つときの床の鳴りかたも聞き分けられる。聞き分けられるというだけで、それが何かの役に立ったことは一度もなかった。

祖母の部屋の障子だけが、まだうっすらと明るかった。起きているのかもしれないと思ったが、戸を叩けば行かなくなる気がしたのでそのまま土間へ降りた。障子の明るさは、草履をつっかけているあいだも消えなかった。

戸を開けると外は思っていたよりずっと暗く、道の先は見えないし、灯りも持っていない。

道は暗くて、両側の田がどこで終わっているのかも分からない。それでも足の裏だけは、この道のどこに石が出ているかを勝手に覚えていた。覚えているものが役に立ったのは、たぶんこれが初めてだった。

これから先に何があるのかは分からないが、分からないという以外に確かなことも無かった。分かっていることばかりの家にいるよりは、そのほうがいくらかましである。

しばらく歩いてから、写した地図を机に置いてきたことに気がついた。

取りに戻らなかった。写せる場所にはもう用がないのだと歩きながら決めた。

第2章 「終点」

家を出てから、ひと月。町を三つ通り、軒を借り、薪を割り、荷を運んだ。どれも半日で覚えられる仕事で、名前を訊かれたことは一度もなかった。覚えるまで居させてくれる場所には、まだ行き当たらない。三日前から、右の靴の底が剥がれかけている。

その日の昼、街道の分かれ目にバスが停まっているのを見た。荷台のほうが客席よりずっと大きくて、麻の袋と木箱と郵便の行李が人の座る側までせり出している。運転手は白い毛の生えた腕を窓から出して荷の紐を締め直していたが、コハクが立っているのを見ると顎で後ろのほうを指した。

「あんた、乗るのか」

「これ、どこまで行くやつですか」

「終点まで行く。それでいいなら乗りな」

「終点って、どこのことですか」

運転手は紐の端を歯で噛んで締め直していて、答えなかった。締め終えてもこちらを見ず、行くのか行かないのかを訊きもしない。

乗った。

車内は油と麻と湿った紙の匂いがした。木箱のあいだに人ひとりぶんの隙間があって、そこへ体を入れると膝が前の行李に当たったが、客はほかに一人もいなかった。

道は途中から上りに変わって揺れかたも大きくなり、木箱が肩に寄りかかってくるのを何度も押し戻していた。そのうち押し戻すのをやめてしまった。

窓の外は木ばかりで、集落を二つ通り過ぎたがどちらでも停まらない。降りる者がいなければ停まる用もないのだと、しばらくしてから分かった。

行李の蓋の隙間から手紙の束の端が見えていて、その束には知らない土地の名が書いてある。それが誰かのところへ届くのだと思うと、少しだけ落ち着かなくなった。

家に置いてきた紙のことを、その隙間を見ているあいだに二度ほど思い出した。あの五文字を母がどんな顔で読んだのかは、いくら考えても像にならなかった。ただ、二つめの町で誰かに肩を叩かれるたび、コハクは一度ずつ振り返っている。

目が覚めたとき車はもう停まっていて、外は夕方になっていた。運転手が前を向いたまま言った。

「終点です」

鞄の紐を肩にかけ直してステップを降りると、そのとたんに膝から下が自分のものでないみたいになった。ひと月ぶんの歩きが、座ったせいで一度に出てきたらしかった。

道の脇に木の柱が二本立っていて、屋根も扉もなく、ただ二本立っているだけの門である。柱のあいだに渡した板に字が彫ってあり、それは三文字だった。

読まなかった。読むには目を上げていなければならないのにそのときのコハクには目を上げているだけの余りが残っていなかった。門の向こうから始まっている坂は見上げるかぎり長く、上のほうは木立に隠れて見えなかった。

そして、灯りがついていたのである。道に沿って街灯が立っていて、柱の上の硝子の箱のなかで火がひとつずつ揺れている。両側の家の窓にも灯りが入っていて、下から上まで、灯りが列になったまま坂を上っていた。

コハクは門のところで立ち止まって、それをしばらく見ていた。これまで通ってきたどの町も日が暮れれば暗くて、暗いのが当たり前だったから、暗いことについて誰も何も言わなかった。

灯りは坂の下から上まで一度も途切れていない。

どの家の窓にも、火が入っている。

ここは、暗くなかった。

誰かが決めてこうしているのだと、立っているうちに思い当たった。日が落ちたら火を入れると誰かが決めて、それを毎日やっている。やらなければ、この坂もほかの町とおなじように暗いはずだった。

この坂の街灯は、たぶん誰かが毎日そこまで上って火を入れている。そう思ったとたんに、その誰かがいまどのあたりにいるのかを目で探していた。探しても分からなかったが、探そうとした自分のほうに少し驚いた。

後ろで音がして振り返ると、坂のほうから下りてきた人がバスの荷台に手をかけていた。麻の袋を二つ担ぎ上げようとして、下の一つが荷台の縁に引っかかっている。

「それ、持ちましょうか」

その人は手を止めて、はじめてコハクのほうを見た。見たというより、荷と自分のあいだに何が立っているかを確かめる目つきだった。

「いいです。どこの誰か分からない人に持たせて、あとで中身が減ったとなると面倒なので」

「減らしません」

「そう言う人のぶんまで、こっちが疑われるんですよ」

その人は袋を担ぎ直すと、コハクの脇を通って門をくぐっていった。担ぎ直すときの膝の落としかたが、今朝まで見ていた父の担ぎかたとよく似ている。

この坂は下から見上げると、灯りの間隔がだんだん詰まっていくように見えた。上に行くほど道が急になるので、そのぶん詰めて立ててあるらしい。

バスは向きを変えて来た道を戻っていったが、その音が聞こえなくなるまでにずいぶん長くかかった。音が消えてしまうと、坂の上のほうで風が木を鳴らしているのが聞こえた。門の柱に手をついて坂の上のほうを見ると、灯りの列はどこまでも続いているように見えた。ひと月のあいだ歩いてきた道のどこにも、こんなふうに人の手が毎晩入っている場所はなかった。

それから坂を上りはじめたが、十歩でやめた。足が上がらず、石畳は乾いていて歩きやすいはずなのに腿のほうが言うことをきかない。道の端に平たい石があったので、そこへ腰を下ろした。

座ってから失敗したと分かったが、座れば立てなくなるということを、このひと月で二度は覚えていたはずだった。坂の上のほうから小さな灯りが二つ降りてきて、揺れながら少しずつ大きくなった。やがてそれを提げているのが子どもだと分かったが、前を歩くほうが小さくて後ろのほうが少し背が高い。

小さいほうが先に足を止めた。

「いる。そこに、いる」

「え。どこのことを言ってるの」

「動いてない。石のとこに座ってる」

後ろの子が追いついてきて、ランタンを頭より上まで持ち上げた。自分の背が足りないぶんを腕で足しているような持ちかたである。赤いベレー帽をかぶっていて、腰のベルトに革のポーチと小さな瓶が下がっている。

灯りがコハクの手元を照らして、それから顔を照らした。

「こんばんは。いま着いたところですか」

「こんばんは。さっきのバスで来たんだ」

「灯り、持ってないんですか」

「持ってない。要るとは思ってなかったんだ」

「これから上るのに、それはちょっと無理だと思います」

その子は少しのあいだ黙っていたが、それから小さいほうに自分のランタンを預けて背負い袋のなかを探りはじめた。出てきたのはもう一つのランタンで、硝子に細かい傷が入っていて、提げるところの金具が黒ずんでいる。

「それ、だめ」

小さいほうが、預かった二つのランタンを提げたまま一歩前に出た。両手がふさがっているので、止めるのに使えるものが声しか残っていない。

「それ、わたしの。芯を替えるって、フウさんに言ってある」

「三日も置いてあったよね」

「明日やるつもりだった」

「明日やるつもりのものは、今日いる人に貸していいことになってる」

「なってない。ホノが勝手にそう言ってるだけ」

小さいほうはそれきり黙り、二つのランタンを胸の前で持ち直した。コハクは二人のどちらを見ればいいのかも分からないまま、石の上に座ったままでいた。

「工房のです。古いけど、ちゃんと点きます」

「いいよ。上まで、そんなにかからないだろ」

「かかりますよ。ここからだと、まだ半分も来てないですから」

その子はそう言ってランタンを押しつけた。仕方なく受け取ってみると、見た目より軽くて、そしてずっと温かかった。

「ありがとう。あとで返しに行くよ」

「返さなくていいです。工房に、こういうのはいっぱいあるので」

コハクは硝子ごしに炎を見たが、芯が少し傾いているせいで火の先が片側だけ長く伸びている。直せそうな気がして、金具のあたりへ指を伸ばした。

「あ、そこは触らないほうが」

言われたときにはもう触っていて、金具は火のすぐ横で温まりきっていた。熱いと分かったのは指を離したあとで、離すのが遅かったということも、そのときに一緒に分かった。

「熱いです。そこ、いちばん熱くなるところなので」

「うん、いま分かったところ」

小さいほうが声を出して笑ったので、コハクは少しだけ楽になった。

「芯が曲がってるの、見て分かったんですか」

「片っぽだけ長かったから。火の形が、片側だけ違って見えたんだ」

ベレー帽の子が、はじめてコハクの顔をまともに見た。

「それ、最初は誰も分からないんですけどね。僕も一年かかりました」

「一年って、何をしてたら分かるようになるの」

「毎日いじってると、あるとき急に見えます。そういうものらしいです」

「毎日いじれるところに、いるってことだよね」

「工房にいるので。古いのを直すのは、だいたい僕の役になってます」

小さいほうが、預かっていたランタンを持ち主のほうへ押し戻した。

「その人、まだ座ってる。上がるなら早いほうがいい」

「そうだね。上まで行けば、置いてくれるところはありますよ」

「宿があるんだ、ここ」

「宿ではないですけど、広場まで行けばどうにかなります」

何と答えればいいのか分からなかったのでコハクは黙っていた。二人は坂を下りかけたが、それから背の高いほうが振り返った。

「そういえば、ひとつ訊いていいですか」

「うん、なんでも訊いて」

「いつ生まれたんですか」

妙なことを訊く子だと思った。

「四月だけど、それがどうかしたの」

「何日ですか」

「十二日」

「わかりました。おやすみなさい」

それだけ言って二人は行ってしまい、灯りが二つ、揺れながら坂の下へ遠ざかっていった。

コハクはいま渡されたランタンを持ち上げてみた。足元の石が、ひとつずつ端まで見えた。

立てた。

坂は途中で二度ゆるく振れて、そのたびに家の並びかたが変わった。門のすぐ内側は川に沿って洗い場と干し場が並んでいて、水の匂いと、獣毛を洗ったあとの匂いが一緒に来る。

干し場には織ったものが何枚も掛かったままになっていて、風が入るたびに全部がおなじ向きへ膨らんだ。取り込むのを忘れているのではなく、そうやって干しておくものなのだろうと思った。

少し上ると道の左に窯らしいものの影があってそのあたりだけ土の匂いが強かった。夜のうちは火が落ちているらしく、煙は出ていない。

もっと上るとパンの匂いがした。焼く時刻ではないのに匂いだけが出ているので、コハクは戸の隙間へ顔を寄せ、なかが暗いことを確かめてから離れた。

街灯の火はどれも硝子の箱の底のあたりで小さく揺れていて、外の風がどれだけ吹いても消える気配がない。箱に入っているというだけで、火はこれほど強いものになるらしかった。

井戸のあたりでは足元が少し濡れていた。どの家からも違う匂いがしていて、町ぜんぶが誰かの仕事の匂いでできている。

途中で一軒だけ戸が開いていて、なかで誰かが桶を洗っていた。顔は見えなかったし、コハクが通り過ぎても水の音は同じ調子で続いていた。

街灯は歩数にして三十ほどおきに立っていて、次の一本が見えているうちに前の一本が後ろへ流れていく。坂の途中で一度だけ振り返ると、下りてきた灯りの列がそのまま門まで続いている。

こういう坂を、これまでコハクは見たことがなかった。夜に灯りがあるのは家のなかだけで、外は暗いというのがどこの町でも決まりのようになっている。ここは、外のほうが先に明るくされていた。

家は上るほど増えて、増えたと思ったところで道が急に平らになった。広場だった。

真ん中に大きな木が立っていて、いちばん低い枝のあたりに硝子のランタンが六つ下がっている。ほかは全部おなじ色に見えるのに、そのうちの一つだけが少し濃い色をしていて、なぜ一つだけ違うのかは分からなかった。広場の下手のほうで家の窓を内側から開けて灯りを入れている人がいて、その窓が閉まると明るいところが四角く道の上に落ちた。

広場に面していちばん大きな建物があって、煙突が二本立っていて窓の数がほかの家よりずっと多い。木の正面で、川のほうだった。

表に張り出した板の場所に卓が出ていて、客が二人残っている。二人はコハクの前を通って坂を下りていき、片方が振り返らずに言った。

「まだ開いてるよ」

コハクは戸のところで立ったまま、入るかどうかを決めかねていた。中からいままで嗅いだことのない匂いが出てきて、それは焦げているのに焦げくさくなく、匂いの奥のほうがほんの少しだけ甘い。

戸が内側から開いた。

「ああ、悪い。閉めるところだと思ったろ」

前掛けをした人が立っていて、手に麻の袋を提げている。後ろで太い尾がゆっくり動いて、開いた戸の縁に軽く当たった。

「いや、そういうわけじゃないんです」

「入って。開けたままだと風が入るんだ」

コハクは入った。中は暗くなくて卓が四つと奥に大きな鉄の器械があり、器械のそばに麻の袋が積み上げてあって、匂いはそこから来ていた。

入ってすぐの床板だけが色が濃く、そこだけ人の足で磨かれたようになっている。毎日おなじところを踏む人がいて、その人が何年も踏みつづけると床の色まで変わるものらしい。

「そのへんに掛けて。荷は足元でいいよ」

「ここ、宿もやってるんですよね」

「やってない。うちは飲むところだ」

「じゃあ、僕はどこへ行けばいいんでしょうか」

「いいから座って。話はあとでいい」

言われるままに座ると、待つ間もなく豆と麦を煮た椀が出てきた。

「腹、減ってるだろ」

「はい。昼から何も食べてないです」

「そう言うと思った。食べて」

「あの、お金はいま持ってないんです。何か手伝います。洗いものでも、薪でも」

「今日はいい。いまのあんたの手も足も、使いものにならん」

「明日なら使えます」

「そうか。じゃあ明日、勘定と一緒に働いてもらう」

コハクは椀を持って、それから持ったまま止まった。訊かれると思っていたからで、どこから来たのか、何をしに来たのか、家の人はそれを知っているのか。ひと月のあいだ、軒を借りるたびにその三つは必ず訊かれてきた。

この人は、そのどれも訊かなかった。

匙を入れて口へ運ぶと熱くて思っていたより塩が効いており、二口めで自分がどれくらい腹を空かせていたかが分かった。

「うまいです、これ」

「そりゃよかった。うちは塩を強めにしてある」

その人は器械の前へ戻って麻の袋の口を開け、中から茶色い豆をすくって掌の上でゆっくり転がしはじめた。指がよく動いて、豆を一粒ずつ立てながら割れているものだけを見もしないで脇へ弾いていく。

見ていて飽きなかったし、手のほうが目より先に決めているのが離れたところからでもよく分かる。

「音が、一粒ずつ違って聞こえるんですけど」

「板の端と真ん中で鳴りかたが変わるんだ。割れてるかどうかは、音じゃ分からんよ」

「分からないんですか」

「俺も分からん。分かるやつがいるなら、いっぺん連れてきてくれ」

コハクは椀を膝へ下ろして、板の端まで転がってきた粒をひとつ拾い上げた。横に細い割れ目が一本だけ入っていて、爪を当ててみると思っていたよりずっと浅い。

「こんなに細いのに、駄目なんですか」

「そこが先に開く。開いたところだけ余計に火が入るから、一粒混ざると、いっぺんに焙ったぶんが全部そうなるんだ」

「そういうの、見ないで分かるんですね」

「持てば分かるよ。目で見て探してるうちは、まだ遅い」

ソイは掌を傾けて弾いた粒を板の端へ寄せると、その手をそのまま卓のほうへ伸ばして角を一度だけ叩いた。

「そこ、色が薄いだろ。三十年ぶんの肘だ」

言われて四つの卓を見比べると、薄くなっているのはどれもおなじ角だった。コハクは自分の肘の下を掌で撫でてみたが、そこも指が滑るほど薄い。器械の腹にも黒くなっているところが一箇所あって、そこだけ艶が違っていた。

「これ、毎日やるんですか」

「毎日やる。やらない日をつくると、その日のぶんが次の日に来るからな」

「割れてるのって、そんなに混ざってるんですか」

答えが返る前に表の戸が鳴って、外から声だけが入ってきた。ソイは掌を傾けたまま、そちらへ顎を上げた。

「明日の分、置いとくよ」

「そこ。奥まで入れといて」

ソイは掌の豆を袋へ戻して土間へ出ていき、しばらく戻ってこなかった。コハクは椀を持ったまま、弾かれた粒が板のどのあたりまで転がっているかを目で追っていた。

戻ってきた人は、麻の袋の口をもう一度開けた。出ていく前とおなじ手つきで、掌の上に豆をすくい直している。

「それ、僕でもできますか」

「できるよ。誰でもできる。俺も最初はそれだけやってた」

誰でもできる、という言葉が耳に引っかかったが、この人の言いかたには家で聞いたのとは違うところがあった。できないことのほうへ順番に進んでいく人の言いかたに聞こえる。

「弾いたやつは、捨てるんですよね」

「割って挽いて、うちの飯に混ぜる。もったいないから、そのうちそうなった」

「その豆、そのまま噛むんですね」

「飲むんだ。焙って、挽いて、湯を通す。明日、飲ませてやるよ」

コハクは椀を空にして、空にしてからひどく眠くなっていることに気がついた。まぶたが下りるより先に、匙を持っている手のほうが止まっている。

「二階が空いてる」

「え、いいんですか」

「布団はある。埃っぽいけどな」

「自分で干します。明日の朝でいいですか」

「好きにしろ。今日は寝ろ」

その人は掌の豆を袋へ戻して、階段のほうを顎で指した。

「階段を上がって、右のほうの部屋だ」

二階の部屋は狭くて天井が片側だけ斜めに下りていて、窓が一つある。鞄を下ろしてから、そのひとつきりの窓を開けてみた。

正面にあの大きな木があって、低い枝のランタンがここからだとちょうど目の高さに並んでいる。六つのうちの一つだけが濃い色をしていて、そこだけ灯りというより木の実のように見えた。

もらったランタンを窓の下へ置いて蓋を開けて火を消すと、硝子の傷は火が消えたあともしばらく細く光を持っていた。

部屋のなかは埃の匂いがしたが、その埃はずいぶん長いあいだ誰も上がってこなかったことの証しでもある。それでも布団が置いてあるということは、いつか誰かが来ると思って置いてあったということだった。

窓を閉めないまましばらく坂の下のほうを見ていると、門のあたりの灯りはこの高さからだと点のように小さく見えた。あそこに座り込んで立てずにいた自分が、いまはこの窓の高さにいるのだった。

布団はほんとうに埃っぽかった。横になって天井の斜めのところを見ているうちに、まだ何ひとつ訊かれていないことを思い出した。

この町の人がみんなそうなのか、この人がそうなのかは分からない。分からないまま眠ってしまいそうだったので、コハクはそれ以上考えるのをやめた。

もし訊かれていたら、家を出た理由を言わなければならなかった。冒険に出たと言えば笑われるだろうし、笑われないように短く言おうとすると、どう並べても嘘になりそうだった。

訊かれなかったので、答えなくてよかった。

答えられないということに、まだ誰にも気づかれていない。